コトシのゴサツ

ドゥブレ『幽霊侯の残』
 中世フランスの女性「化」学者と夫の徴税吏、妻の愛人、小氷期ヨーロッパの苛酷に暮らす三者書簡体小説。自己言及のパラドックスを当事者が解明するのが新機軸。禅問答のような局面から展開するFブラウンのSFのようで、懐かしく、敬遠していた「恋愛」小説も苦にならなかった。まあ後半、情緒がやや過重になったのが残念なのだけど。リスト入りしたのは、千五百頁の長編を飽きずに読了し、翻訳調でも生の言葉でもない文の磁力を発見できたから。半切りに綴られた綾を丹念に追えば、面妖な古典科学がおさらいできる。また愛人である若い「女」は余白を家計簿に使う癖があり、当時の細々した物価を知ることもできる。お役立ち度も大だ。

ゴールドマン『アイダとエルンスト』
 老嬢と少年こそは最も正義感が強いという(フォークナー。少年の本名はアイザック。ちなみにコード名アイダはオペラの王女ではなくアイダ・ルイス、女灯台守が由来)。血縁関係のない二人組が社会悪に鉄槌をくだす、といっても他愛のないいたずらを仕掛けるだけ。(その半数が百万長者とされる)連邦下院議員の妻のケースでは、フードコーディネーターの肩書きと瀟洒な店舗を所有するターゲットにカエルをすりつぶしたクッキーを食べさせることに成功する。ただし、唯一少年の視点で語られる最終章では死人が出る。かつて居並ぶ記者たちの前で鉛を吸引してみせた発明家は、ご自慢の自動目覚まし寝台(ダリとチャップリンの融合)の誤作動(細工)により昇天してしまう。

デュボイス『ゾンビ村だより』
 邦題が酷い。原題は"audubon.org"です。「アメリカの鳥たち」で充分、そもそも村に居住するのは生身の人間たちなのだ。アーカンソー(米国内の他のどこの州より成功につながるビジネス環境と快適な滞在環境を提供します……ウォルマートアーカンソー州内に本拠を置いているのもこのためです)の森をめぐらす一村を舞台にした掌三枚の連作短編集。すなわち一編二千字、ベルビル(ベルヴィル)郊外に於ける五十二通りのゾンビの死にざまが収められているわけ。愛娘に腕を噛まれゾンビ化したクリーニング屋の店員は、旅路の果てに迷い込んだこの村で、瞬く間に少年らに囲われ最期を迎える。年少のユースが顔上に石をかざした刹那、奇怪にも青年ゾンビの目が涙を垂らす。その視線の先、梢には……。
 本人も家族にも思い至らぬ理由から、ゾンビにとどめの一撃を課すことができない少女のカウンセリングの顛末を描いた三つが面白かった。

XカスバートN『ダイアリーズ』
 公式、非公式のインタビューをまとめ、さらに自身が加筆したカスバート自伝の「決定稿」。砂漠のもや――まほろより脅威の老人が出現して六十余年、当時の熱狂を紐解けば隔世の感ひとしほである。氏は今年初頭に変声したという。推定年齢十二歳、砂漠から持ち帰り、ガラス瓶に密封されていた砂も半分となった由。本書に於いては失った理由も砂粒の行方もぼかされているが、冷たく脆いネバダの砂上で、或いは新生児室の固いベッドでカスバート氏が消滅した後、熱心な記者か伝記作家により真相が明かされるかもしれない。
 生涯の友となった医師は「問題は君が何処からしみ出してきたかだ。それを突き止めさえすれば、我々は君の矢を掴むことができる」と常に励まし、恋人たちは「貴方は何処へ行くの?」と眉根を寄せたそうな。

小海老天『鰹本枯節4:30』
 会津藩士鰹本枯節、腹を穿たれ命尽きるまでの四時間三十分。冒頭たちまち切り伏せられ、枯節の戦は窮まる。斜面を滑り落ち、視界は草っぱら。難儀して首をひねっても空模様はうかがえぬ谷中。これより延々と独白が続く――回想シーンはなし。茫然自失の語り手、枯節の意識が、過去にも未来にも飛ばないせいだ。前後の尺は半時ほど。躍動する命も死の静けさも、往時の営み、郷愁も意地も諦念も口の端に浮かばない。
「いたいあついぬるいさむい」
――読者は如何なる教訓も得られず、小説世界にすり合わせて感性を研ぐ手はずが定まらない。枯節はもう動かない。瀕死の男は身じろぎせず、ひゃっこい手のひらを傷口にあてがう労すら厭う様子(からだをさぐるのが怖いのだろうね)。
「みずみずみず」
――もはや主演には期待せず、誰何する仲間の声、そろり近づく敵の足音を待つ。けど誰も来ない。鳥も虫もこの男の前では存在を消すようだ。さっさとケリをつけろと思う(そのほうが本人のためでもあるしさ)。ページ数は未だ半分も消化しておらず、これ以上は付き合っていられないと投了の読者が続出する頃合だろうか。私はそうした(はい、おしまい)。ぱんと本を閉じ、それから御多分に洩れず最終ページを開く。読み終えると私は早々に中断した箇所を探し当て、遠く飯盛を望む草いきれの渦に――下級武士のメエルシュトレエム、綻びの螺旋にふたたび取り組んだという次第。

 足しての一冊は『越境小説』ファノン。ブックリーダー専用翻訳プログラム<attraverso>は出力を上げるとスタンザが増減する。テキストの完全なる理解ゆえに、しまい込まれた草稿を浮かび上がらせ、作家のあやふや(欺瞞)を吹き飛ばしてしまうのだ。パラメーターを極限に設定して「イワン・デニーソヴィチの一日」を読む男の話。刊行前から映像化企画が進行し、同年に映画が完成している(劇中メリル・ストリープがポロリ、というかハラリします)。


 エントリーに一日掛けることもできなんだ。来年できれば書き直したい。

※著者名追記。「偉人、巨人、傑物と呼ばれるひとびと」の名で検索してきた人がいたらごめん。