I know your eyes in the morning sun. I feel you touch me in the pouring rain.


 読み直し、書き直しを控え破壊した国語で書く

『愛は静けさの中に』トホホな邦題が付いた1986年の米映画 元は舞台だったのか テレビで観たのは高校の時だと思う ヒロインは現実の聾唖者である女優が演じ、共演がきっかけでウィリアム・ハートと付き合い、後に別れたというゴシップもあった 当時はラストシーンが不満で、「偽善」とまでは思わなかったものの、得心いかなかった 二人はめでたく結ばれるのだが、クラッシックファンである男はエンディングでレコード・プレイヤーの扉をトンと閉め、恋人の居室に向かう やりすぎだと思った なぜ自分の趣味の世界を閉ざす幕切れなのか 愛する女性と共有できない音楽は、捨て去るべきもの、犠牲にしなきゃならないものなのかと

 次は『ER』のエピソード 野心的な外科医であるベントンの愛する子、リースには生まれつきの聴覚障害がある 挑戦的な生き方を貫いてきた彼はあらゆる治療法を探していたのだが(人に頼る暮らしをさせたくない)、画期的な施術(人口内耳?)により聴覚を得る可能性に賭けようと決意する 手術前のリサーチで関係者に意見を聞くのだが、その中に聾者の女性医師がいた 婦人は手術に反対という 手術はリースの世界を一つ潰す重みを持つというわけだ 非聴覚者の世界、手話は豊饒で歴史のある文化であり、あなたでさえ取り上げる権利はない、今捨て去る選択はすべきではないと忠告する ベントンは呆れ顔で一笑し、席を立つ 次に面会した専門医は件の女性らの主張する謂わば「無音のアイデンティティ」を嘲笑し、彼らは過激派、怠け者とまで詰る 結局ベントンは施術中止を決定する その理由はセリフでは示されない 示唆的なシーンがいくつか流れただけ

 一昨年読んだル=グウィンの『なつかしく謎めいて』に鳥人の住む世界を紹介する一章があった(翼人間の選択) その国(Gy)では万人に一人、思春期に翼が生えてくる 羽はまたたくまに育ち背丈と変わらぬようになる 大翼は飾りじゃなく、半日も練習すれば宙を飛べる 鳥人たちと一般人はきっちり住み分けされている お互い相容れない存在だ 翼が生えそろうと家族に別れを告げ、仲間の元で暮らすという規範が確立している(現金収入のため鳥人は都市のメッセンジャーとして働く 飛ぶ以上の享楽はないから、わずかな金で充分なのだ) 極々稀に、現世に留まり社会生活を営むことを決意する鳥人がいる 外科的に翼を除去するのは不可能なので(家人にも発覚を恐れ、小さなうちにもぎとろうと骨まで切り刻み、死に至る悲劇は多い)、我が身を覆う美しい翼を紐で固く縛り、不自由な生活を耐え忍んでいる アフターファイブに空中遊泳を楽しむなんて許されない 苦労して得た地位を失うだけでなく、尊敬の裏でしっかりと積み上げられていた軽蔑を一気にぶつけられ、社会から叩き出される 実際に地方の村々では翼を芽吹かせた少年少女(悪魔/神の子)は村人から石をぶつけられ、挙句に崖下に突き落とされる習俗が残る 「文明的な」都市とは異なり、辺境では端から選択肢はないのだ ガイでは万事、鳥人は生得者、銀の匙ならぬ天使の羽をもって産まれた幸運な子どもとはみなされていない ウェルズの『盲人の国』の裏返しのような物語


 聴覚に頼らず日々を過ごす事、患者として生きる事、背中に大仰な翼を抱えて人生を切り開く事 折々に観賞した創作物を通し、自分は多様な価値観に触れ、啓蒙され――いや、かえって皮相的な理解に留まり、磨耗した箇所もあるだろう(映画のラストも今では様々な解釈ができるし、その中には偏ったものもあるかもしれない)
 血友病患者は断種しろと叫ぶ者は、非聴覚者に立ち去れと告げるだろう スペースは与えてやるが営みは自助でまかなえと また、その者は翼人間を隔離するだけでは収まらないだろう 社会の脅威とみなし、建て増しのトーチカから騒ぎ立てるに相違ない 世界には唯一つのルールがあり、規定外の居住民はやっかいな「敗者」か「外敵」としか考えない連中だからだ 
 コストが馬鹿にならないので医療に制限を、収監コストが膨大になるので終身刑ではなく死罪を、とする主張がある 一方、「卑しくも日本の首長が」とか、「海外の貴賓とも遜色なきよう」といった理由で立派な建物、ご大層なイベントの予算が盛り込まれる現実がある 中流層の座敷わらし化、経済的安楽死を必要悪とするほど余裕のない――市民の拘束を獣の檻と等しくするナイーブな文化であり、逼迫した経済状況に置かれているのであれば、それは生得者を突き殺す――土の上で煮炊きし、石くれの祭壇を持つ辺境の寒村そのものだ その程度の国力と自覚し、威信を名目とした出費は抑えるべきだろう もちろん、寒さに凍え、身を寄せ合うしか暖を取るすべのない住民たちと、イタリア製の空調の下、イギリスの旧屋敷から空輸した暖炉の熾火を眺めつつムートンに横たわる村長一族が相和し並存する社会が、この国の到達点であるならば話はちがう

 皇居でのニュースを見ながら、車椅子で勲章の授与式に臨む姿を、忌々しい、畏れ多い――不自然な絵だと歯がみする視聴者は果たして存在したのだろうかと考えたことがある(不敬の師と社会リソースを食いつぶしたその弟子、とかね) あるいは功をなした受勲者を「その他大勢」と一緒にするなと哂うだろうかと

 わざわざ暗澹たる恥部を発信して開き直り、すり替えまでやってのける連中もいるが、(資本主義、自己責任が嫌なら)「日本から出るしかない」と知事答弁を引き出した、凡百のコメンテーター、記者に勝る高校生に謝謝


※誤字が気になって仕方なく、30日にあちこち手を入れる 変更したタイトルは
Cause we're living in a world of fools
Breakin' us down
When they all should let us be
We belong to you and me
と続く、うら寂しいミラーボールとスパンコールのきらきらから拝借
 それから言わずもがなの追記を 性衝動と檻に関する加筆ではなく――「表現の自由にヒモを付けるな」に「坑内のカナリアに口輪(足輪)をはめるな」まで皮袋に詰められては、もはや(酩酊するか)沈黙せねばならぬ――エントリ前述の「市民の拘束を獣の檻と等しくする」の補足です
 獣は食料確保、治安の為に管理され、保護される希少種もあれば、貧国に於いては経済的理由からその命を取る事例も存在した 政治体制が市民を無用、無益に管理するのは固く禁じられているし、果たして国家に人の命を奪う権利を与えて良いのかという民主的観点が死刑廃止の理由に挙げられる 市井の安全を考慮し死刑判決が下る現実ではあるが、囚人の食餌が乏しいからと処分する社会は、(ハリー刑事のセリフを借りれば)交通違反、ご近所トラブルで死刑執行まで行き着く野獣国家と称されるべきだろう 狼を狩る者は狼でしかない