えん‐きょくなトラックバック そのなな


 おそらくじぶんはもときじのしんいをつかみそこねているだろうから、このエントリはえんごにも、たいりつしゃをあとおしするうしろだまにもならないとおもわれる

 まず、たいだなミスが、かそうもんだいにまでつらなるのがわからない きょうじゅががくせいに「ドストエフスキーってなんですか?」ときかれ、ついにこのひがやってきたかとしみじみうけとめたというそうわがあった じつはわたしはたいようけいのわくせいもあげられないと、りかコンプレックスをこくはくするざいかいじんをしょうかいしたほししんいちのエッセイもおもいおこされる (ちゅうごくにはいぼくしたれきしどころか)にちべいがせんそうをしたかこをしらないひと、ぶんすうのからくりをおぼえないひと、かんじをおもいうかべるとゲシュタルトほうかいしてしまうひとはしせいではとくいなそんざいではなく、いちがいにあわれむ、ほごされるたいしょうにむすぶのはふかかいだった 『はくち』をしらず、さきのきょうじゅをかんじいらせたのは(にほんぶんがくコースの)とうだいせいだ 「もりみつこ」のながでてこないおおものしかいしゃをわらうさいは、けんぼうしょうかんじゃにたいするうちなるあくしんをみつめなければならぬのかとげんなりもした
 あいこくデモでかかげられたプラカードのごじをちょうしょうしたきじに、きょうあいながんかいをなげくひなんがよせられている トピックをろんじる(どうかつする)ならば「せめてしんしょいっさつはおさえろ」はゆうこうで、「じじょをひけ」ははいじょのろんりとかりにされるのであれば、ふくざつすぎてせつめいしてもらってもりかいできそうにない
「しょうしょうはちゅうじょう、400は40のタイポだからよしとして、さつがいとしょりはおもにじょうがいでおこなわれたことをふまえておくべきです」ですむだろうか 「もりつちがどうこうくっちゃべるいぜんに、きみはよってたつぶんけん、けいさんすらじまえのけんしょうをなまけていたわけだ そもそもらんぞうされるコピペでまんぞくしているからてんさいのあやまりにきづかずうんぬんかんぬん」とつづくのではなかろうか
 きゅうしょくみんちのじゅうみんにむかいげんこんのいせいしゃがしゃざいをのべる よみまちがいに「めんどうなセレモニーていどにかんがえているからだ、じぜんのせいどく、あっせいにさらされたひとびとにかたりかけることばをしたよみするせいじつさももちあわせていなかったのか」とのひはんに、「おおぎょうにたたくな やるならじゅうみんがわのたどたどしいへんとうにもつっこめ だいひょうしゃがおざなりなかんしゃのじをくちにするなといえ」はゆうこうなはんろんであるのか
 はたして「わたしたちははいがいしゅぎを(杵)さない」というプラカードのごじのみをせめたてるネットのげんせつに、ありのいっけつ、おもいダメージをこうむるうんどうがそんざいするものなのか おもいつくのは「ほら、がいこくのスパイがまぎれこんでいる」といったたわいないいんぼうろんぐらいで、リークもしんぶんしゃのこうえんもなく、イラクひとじちじけんのきょうそう、ふめいりょうなことばをきっかけとする「イッテ、イッテ」そうどうがさいげんされるきぐがあるのだろうか
 ネットをはじめて、「にほんごわかります?」といったきりかえしほど、しゅうあくなやゆはないのではというおもいをもつが(じぶんはもときじをおもしろおかしくよんだわけではない レイシストをわらいとばすさぎょうは、ヘイトをしばるほうあんのせいりつをこばむものがおこなうたいこうげんろんのひとつなのだろうとかんがえている)、ブクマのかれつなひはんコメントをみると、すくわれるあしをきりはなしているだけではないかとさえかんぐってしまう
 あるしんしから「ブッシュとか――アメリカじんというのはインディアンのしそんなのか」とたずねられたけいけんがある すぐにことばがでなかったのはあぜんとしたせいではない このひとにとってふような、ふえてなぶんや、かいわのうめくさ、ただきょうみをもてぬまますごしてきたのだろうとあれこれおもいやっていたからだ あいてへのみくだし、あわれみはわかず、さほどおどろきもしなかった たとえるなら
「そう<はてサのかくはけいざいじょうきょう、がくれきもうしぶんなく、コネもじょうじょう――そのめぐまれたネットしゅつじにいささかのおいめをかんじているめんめん>なるおてもりのていぎですませていたじぶんが、しゅっぽんしたぶよぶよさんのしんぎふめいのけいれきをよんだとき」ぐらいおどろかなかった

 もちろんとうにおきづきのごとく、とうほうはよみてのろうりょく、しきいをひくくすることをいとしない、たしゃをはねつけるかな――くぎりのないただのかんじぬき――エントリ じょうほうぶそくをこうしょうする、またケアレス・ミス、ヒューマン・エラーをかるくあしらうこういは、はれんちな、ときにきけんなふるまいとなるというかんがえにいぞんはない 「かくごがないひと」というそしりはかんじゅするが、それでも「ぶんみゃく」をあえてすっとばすのがげせないのです 「げんろんのじゆうがあるんだよ!」というちかろうのしゅうじんのさけびは、8がつ15にちにもとばくりょうちょうのシンパからはっせられたそれとは「じゆう」のしゃていがちがう けいい、はいけいをけしてことばをぬきだせば、ジンゴイズムにのっとったはいじょのどごうがむくにロンダリングされてしまう このぶせいなかなエントリのように、ありふれたあくいなんてたやすくみやぶられてしまうものだけれど 
 ラファティはへいぜいのごじ・ごようを「にせがねづかい」とかいた きょうじをもてば、がんきんのこうしもげんこうのせいどにいどむアナーキズムのいちけいたいとなろう 「ぞくじょうとのけったく」をいさぎよしとせず、きんよくてきなかくめいかのてのなかにあったならば、ふさわしいスローガンとひょうかされたかもしれない


d-ff 辞書を引く習慣のない人は少なくない。日記はネットでの拡散を企図された看板を引き合いに、運動の驕慢さ、付け焼刃加減、甘えを笑っているのだろうと。 2010/01/17

今年の五冊


 だが今年度は読書量40パーセント減 これではいかんともしがたく、苦しまぎれに未読の五冊を選定 未読となれば、自分は国内の文芸、新刊となる 架空の小説をでっち上げ、書評する力技はこなせそうもないので実在する小説の架空「案内」とした 作品は書評欄や種々の広告をチラ見し、ぼんやり心に留まっていた何点から取り上げたもの 結果すこぶる無難なラインナップとなったのは広告の力だろうか 正確なタイトル、著者の確認以上は控えました(なのでもちろん内容はまるっきりの嘘、でたらめ、思いつき 参考にしないでね) おさまりわるし

伊井直行『ポケットの中のレワニワ』

 昭和46年、さる地方都市の団地に住む子どもらが柵のない屋上で摩訶不思議な生物と出くわし……藤子プロおなじみの設定で物語の幕は開ける ただし出会いと別れまでの期間はわずか一年、室町から続く渡来人が音頭を取る伝統的な川祭りの夜、脱走兵騒動と一人の少年の死で牧歌的な郊外の神話は終止符を打つ 下巻はそれぞれの二十年後 男は地元に残り健康センター勤務の公務員に、帰郷した女はオロゴン流暗殺術の使い手となっていた……今さらながらのからゆきさん問題(物腰の柔らかな娼婦は「レッドレター」なる政府の陰謀を緋文字で告発する体温の高いコミュニティ紙の発行人でもある)をしらじらと織り込む、甘く饐えた青春小説 尚、レワニワ富士と呼ばれる長閑な休火山は実在するとのこと 巻末解説は赤塚りえ子

下川博『弩(ど)』 

 戦国の城を舞台にした幻想小説 といっても雨雲に視界が遮られたカフカのそれではなく、エンデ的な硬質さ 高楼に幽閉された高位の人質の境遇を、著者は音楽家が運否、天賦自然を譜面に刻みつけるようにブラックビューティのモノトーンでつづった 天守閣の一角、急ごしらえの監獄に春陽が差し込む――吹きさらしに天鵞絨の覆いを掛けた独房唯一の明り取り、窓は漆喰に穿たれた矢狭間である 無聊をまぎらす為、狭間から下界を覗くのが囚人の日課となる そして武人は四角い枠中に夜明けのオイノコを従えた運命の女を捉え……小説中に仕掛けられたイルージョンは、中世のバラッドに謡われるかのファム・ファタールを巡る恋愛模様の絢爛さに目を奪うのを要所としておらず、人質の不易な日常に発現する 尋問係の若衆(小姓)と書見台を挟み対峙する場面――機能美を追求した筆致、ドライポイントの俯瞰図は、特異点が消失した律儀なエッシャーのだまし絵、記憶の中から掬い上げたドラ・マールの奥の横顔を眺めるが如く、読者を魅了してやまない 解説蜷川実花

小川洋子『猫を抱いて象と泳ぐ』

 好事家風にタイトルをもじれば「スカートの中の手帖」、「大跨びらきの世界」といったところ 自動チェス機械――いんちきからくり(人形)の張形に潜む少年の目を通した馥郁たるヨーロッパ史点描 故郷ハメルーンの石畳を起点に、味わい深い登場人物たち――愛と毒しか言葉に出せない画家、ペッピーノ一座、新大陸から来た酔いどれ紳士(探偵)、眠れる美女見世物小屋の女)――との邂逅、アンデスを越え約束の地チリへ旅立つ「茶色い服を着た」少年の砂糖菓子のようにきらめく冒険譚 小品だが「二十一世紀版ブリキの太鼓」といった評価もうなずく ラスト、着ぐるみヴィラン(Osito)を退け、貨物列車に意気揚々と乗り込む場面は、忍び寄る独裁者の暗雲を予感させ、やり切れぬ余韻を残した 解説須藤元気

 高村薫『太陽を曳く馬』 

 作者入魂の三部作の最終巻は、漱石『門』とアメリカ・インディアン神話を下敷きに僧門に於ける魂の殺人を描く 『薔薇の名前』ばりに重厚なミステリーであるが、ヒロインの造型が出色 女には向かない職業に就いたロペス三花――無造作に後ろに引っつめた髪、ゆったりしたブラウスに隠し切れない豊潤な肢体――は、簾の向こうで表情をこわばらせるやんごとなき姫の如く、事件現場であろうが、容疑者を前にしようが思いつめた表情で佇んでいるばかりで、まるで不用意な我が身の挙動が一瞬にして天変地異をもたらすと怖れているかのよう これほどの定番、手垢のついたキャラを出されては凡百の小説なら読者の方がよぽど怖気つくはずなのだが、本書はベタを突き詰めると極北に転じるという好例だ 映画化も予定されているそうだが、成否は稲森いずみ井川遥を兼ね備えた新人の発掘如何と断言する 個人的には草間夕子で確定だが、結局、黒木メイサのような旬の女優が射止めるのであろう 嘆かわしいことである 解説内田恭子×中沢新一

鹿島田真希『ゼロの王国』

フィネガンズ・ウェイク』に連なる所謂「文学の冒険」系 隠遁者であるアニメーターとその妻、妻の恋人、三様の意識を紡ぐ意欲的なプロットと微細な文体をモザイクになぞらえたレビューも読んだが、私的な点検では、ささやかな象嵌を、虚脱したタイルといったものを想起させられた 福祉財源で作った箱物――虎の威を借る事業団が造成した観光地に、本家を模してしつらえられたくすんだタイル 庭園の部分につつましく寄せられた、禿山に埋められた、シーズンオフ海上の所作無げな浮き台のようで、タイルの間には茫洋たる、鬱蒼なる、あっけからんと土くれが広がり……ちなみに廃車場の生活ゴミを漁る本書のカモメは一度も鳴きません(経営者の怒声"Rom!"は幾度も山間に鳴り渡る) 解説リービ英雄


 追加の一冊は正木ゆう子『夏至』で エアリアルの諦観、若しくは悪あがき、悪ふざけ



※少ないなりにまとめる事もできたが、キングの『悪霊の島』、ヒラリー・マンテルの『Wolf Hall』、『よみがえる鳥の歌』セバスティアン・フォークス、ついでに『やんごとなき読者』を読み残したまま、今年の五冊を選ぶのはちょっと抵抗あったのでした

I know your eyes in the morning sun. I feel you touch me in the pouring rain.


 読み直し、書き直しを控え破壊した国語で書く

『愛は静けさの中に』トホホな邦題が付いた1986年の米映画 元は舞台だったのか テレビで観たのは高校の時だと思う ヒロインは現実の聾唖者である女優が演じ、共演がきっかけでウィリアム・ハートと付き合い、後に別れたというゴシップもあった 当時はラストシーンが不満で、「偽善」とまでは思わなかったものの、得心いかなかった 二人はめでたく結ばれるのだが、クラッシックファンである男はエンディングでレコード・プレイヤーの扉をトンと閉め、恋人の居室に向かう やりすぎだと思った なぜ自分の趣味の世界を閉ざす幕切れなのか 愛する女性と共有できない音楽は、捨て去るべきもの、犠牲にしなきゃならないものなのかと

 次は『ER』のエピソード 野心的な外科医であるベントンの愛する子、リースには生まれつきの聴覚障害がある 挑戦的な生き方を貫いてきた彼はあらゆる治療法を探していたのだが(人に頼る暮らしをさせたくない)、画期的な施術(人口内耳?)により聴覚を得る可能性に賭けようと決意する 手術前のリサーチで関係者に意見を聞くのだが、その中に聾者の女性医師がいた 婦人は手術に反対という 手術はリースの世界を一つ潰す重みを持つというわけだ 非聴覚者の世界、手話は豊饒で歴史のある文化であり、あなたでさえ取り上げる権利はない、今捨て去る選択はすべきではないと忠告する ベントンは呆れ顔で一笑し、席を立つ 次に面会した専門医は件の女性らの主張する謂わば「無音のアイデンティティ」を嘲笑し、彼らは過激派、怠け者とまで詰る 結局ベントンは施術中止を決定する その理由はセリフでは示されない 示唆的なシーンがいくつか流れただけ

 一昨年読んだル=グウィンの『なつかしく謎めいて』に鳥人の住む世界を紹介する一章があった(翼人間の選択) その国(Gy)では万人に一人、思春期に翼が生えてくる 羽はまたたくまに育ち背丈と変わらぬようになる 大翼は飾りじゃなく、半日も練習すれば宙を飛べる 鳥人たちと一般人はきっちり住み分けされている お互い相容れない存在だ 翼が生えそろうと家族に別れを告げ、仲間の元で暮らすという規範が確立している(現金収入のため鳥人は都市のメッセンジャーとして働く 飛ぶ以上の享楽はないから、わずかな金で充分なのだ) 極々稀に、現世に留まり社会生活を営むことを決意する鳥人がいる 外科的に翼を除去するのは不可能なので(家人にも発覚を恐れ、小さなうちにもぎとろうと骨まで切り刻み、死に至る悲劇は多い)、我が身を覆う美しい翼を紐で固く縛り、不自由な生活を耐え忍んでいる アフターファイブに空中遊泳を楽しむなんて許されない 苦労して得た地位を失うだけでなく、尊敬の裏でしっかりと積み上げられていた軽蔑を一気にぶつけられ、社会から叩き出される 実際に地方の村々では翼を芽吹かせた少年少女(悪魔/神の子)は村人から石をぶつけられ、挙句に崖下に突き落とされる習俗が残る 「文明的な」都市とは異なり、辺境では端から選択肢はないのだ ガイでは万事、鳥人は生得者、銀の匙ならぬ天使の羽をもって産まれた幸運な子どもとはみなされていない ウェルズの『盲人の国』の裏返しのような物語


 聴覚に頼らず日々を過ごす事、患者として生きる事、背中に大仰な翼を抱えて人生を切り開く事 折々に観賞した創作物を通し、自分は多様な価値観に触れ、啓蒙され――いや、かえって皮相的な理解に留まり、磨耗した箇所もあるだろう(映画のラストも今では様々な解釈ができるし、その中には偏ったものもあるかもしれない)
 血友病患者は断種しろと叫ぶ者は、非聴覚者に立ち去れと告げるだろう スペースは与えてやるが営みは自助でまかなえと また、その者は翼人間を隔離するだけでは収まらないだろう 社会の脅威とみなし、建て増しのトーチカから騒ぎ立てるに相違ない 世界には唯一つのルールがあり、規定外の居住民はやっかいな「敗者」か「外敵」としか考えない連中だからだ 
 コストが馬鹿にならないので医療に制限を、収監コストが膨大になるので終身刑ではなく死罪を、とする主張がある 一方、「卑しくも日本の首長が」とか、「海外の貴賓とも遜色なきよう」といった理由で立派な建物、ご大層なイベントの予算が盛り込まれる現実がある 中流層の座敷わらし化、経済的安楽死を必要悪とするほど余裕のない――市民の拘束を獣の檻と等しくするナイーブな文化であり、逼迫した経済状況に置かれているのであれば、それは生得者を突き殺す――土の上で煮炊きし、石くれの祭壇を持つ辺境の寒村そのものだ その程度の国力と自覚し、威信を名目とした出費は抑えるべきだろう もちろん、寒さに凍え、身を寄せ合うしか暖を取るすべのない住民たちと、イタリア製の空調の下、イギリスの旧屋敷から空輸した暖炉の熾火を眺めつつムートンに横たわる村長一族が相和し並存する社会が、この国の到達点であるならば話はちがう

 皇居でのニュースを見ながら、車椅子で勲章の授与式に臨む姿を、忌々しい、畏れ多い――不自然な絵だと歯がみする視聴者は果たして存在したのだろうかと考えたことがある(不敬の師と社会リソースを食いつぶしたその弟子、とかね) あるいは功をなした受勲者を「その他大勢」と一緒にするなと哂うだろうかと

 わざわざ暗澹たる恥部を発信して開き直り、すり替えまでやってのける連中もいるが、(資本主義、自己責任が嫌なら)「日本から出るしかない」と知事答弁を引き出した、凡百のコメンテーター、記者に勝る高校生に謝謝


※誤字が気になって仕方なく、30日にあちこち手を入れる 変更したタイトルは
Cause we're living in a world of fools
Breakin' us down
When they all should let us be
We belong to you and me
と続く、うら寂しいミラーボールとスパンコールのきらきらから拝借
 それから言わずもがなの追記を 性衝動と檻に関する加筆ではなく――「表現の自由にヒモを付けるな」に「坑内のカナリアに口輪(足輪)をはめるな」まで皮袋に詰められては、もはや(酩酊するか)沈黙せねばならぬ――エントリ前述の「市民の拘束を獣の檻と等しくする」の補足です
 獣は食料確保、治安の為に管理され、保護される希少種もあれば、貧国に於いては経済的理由からその命を取る事例も存在した 政治体制が市民を無用、無益に管理するのは固く禁じられているし、果たして国家に人の命を奪う権利を与えて良いのかという民主的観点が死刑廃止の理由に挙げられる 市井の安全を考慮し死刑判決が下る現実ではあるが、囚人の食餌が乏しいからと処分する社会は、(ハリー刑事のセリフを借りれば)交通違反、ご近所トラブルで死刑執行まで行き着く野獣国家と称されるべきだろう 狼を狩る者は狼でしかない

んあーすうあぃすと、すぱーすた


トリックスター」なる言葉が折々に浮かぶたび、剃髪に三角帽、鼻を赤く塗られ磔刑に処せられるキリスト像が重なるのだが、二十年ぶりに『ヴォネガット大いに語る』を読み、元ネタが判明する
 ニクソンVSマクガバンのリポート「神ご自身をも恥じ入らせるような有様で」中に登場するアビー・ホフマンという「くたびれた」人物に関連し、ヴォネガットは社会革命に於ける道化の位置、歴史的評価を過大だとした 引いてみよう(……は引用者による略)
……アビーはもうあまり道化た真似はしないだろう、とわたしは思った。敗北者を助けたがっている生まれつき愉快な人々の多くが、もう道化を演じなくなるだろう。道化を演じることによって冷酷な社会機構のタイミングを狂わせたり、動きを鈍らせたりすることが不可能であるという事実を、ようやく悟ったからだ。実際、それはたいてい潤滑油の働きをしてしまうのだ。
 にもかかわらず、歴史のおもしろいところは、道化師がしばしば最も強力な革命家の役割を演じたことだ、とわたしに教えてくれる人がいる。だが、それは真実ではない。過去の冷酷な社会機構は潤滑油としての道化師を大いに必要としたので、しばしば意図的に道化師を製造したのである。スペインの異端審判を見るがよい
……宗教裁判所は、異端とみなした者を街の広場で焼き殺す前に、その者の頭から足まですっかり剃り落とした……道化帽子とおかしな紙の衣を着せ、顔まで塗りたくったり、仮面をかぶせたりする。
 会場で作家がインタビューした孤高のチッペワ族が語る「道化」は、「全世界の虐げられたる民の代理と自称して平気で国旗を焼いたり、国旗に小便をかけたりする長髪の若い白人ども」であった*1
「同情は社会機構にとって赤さびみたいなもの」、同情は傷つき血を流す貧者へ与えるアスピリンにしかならないが、「その<ほんのちょっぴり>でさえ、血なまぐさい殺人みたいに勝利者たちの心を傷つける」とヴォネガットはいう 敗北者は「敗北のなんたる事を知っているので敗北者には票を投じない」 マクガバンの敗因を作家はポピュリズムに首まで漬かってしまったからだとした 首まで神に漬かったクエーカーには勝てないと 「選挙は右で」の教え*2
「最適者のみの生存こそ宇宙の意思、苦痛を、犠牲者を無視せよ」陣営が、「泣く者と共に泣く宗教」に戦いを挑まれた際は、犠牲者たちの代弁者が道化に見えるよう鋭意する 会場に飛び交うパンフには「革長靴をはいたレズビアン。気取って歩くホモ。麻薬で狂ったヒッピー。キャデラックで失業保険を取りにいく売春婦。十三人の子供をかかえた大きなでぶの黒人ママ」のイラストがあふれていたそうだ


 エッセイにはアート・バックウォルドという懐かしい名も登場する ベトナムの時代、作家、ジャーナリストは無力(政治家、軍人らが被ったのは2メートルの高さから落下するレモンパイ程度の衝撃)であったが、他方、ジャーナリズムの隆盛期だったとも

 2ヶ月前にエントリすべき一文。テニヲハを弄くりまわし、切り貼りで遊んでいるうち帳面の紙魚へ 夏の終わりに天日干しとなりました

*1:自分の立場では、「反日上等」はカウンターとして理解できる 奇妙な三角帽かもしれぬが、憐れんだり、笑い飛ばしたりはできなかった 個人的に不可解だった例は、行軍を商店街パレードになぞらえたり、ロケットのパラドックスの体でトーチカに籠城したり、弔問客に頭を下げる遺族を冷やかしたり、なぜか幟を立てての一言居士だったりする

*2:んで、当選後は左に舵を切り、裏切り者と貶された人物もいた しかし面舵(starboard)を続ければ「気骨のある、偉大な」大統領と語り継がれるわけだ

十の罪業――たとえば、愛とか

(挿入、脚注、注記を多用する 入れ子が甚だ読みづらい、二名済まない)


 アンソロジーの新刊(2005年)を読む 『十の罪業 BLACK』エド・マクベイン――赤本と黒本があり、スティーヴン・キングジョイス・キャロル・オーツの名が載った黒を迷わず手に取る*1
 故マクベインを巨匠、マスター呼ぶことはやぶさかでないが、実は一冊も読んだことがない*2 (87分署は)いい加減読み始めんといけんなーと思っているうち時期を外してしまったのと、昔々『笑う警官』*3なる映画を見て、小説を含めこれ以上の警察ミステリーの創作物は探せないのじゃないかと引いてしまったせいでもある*4
 で、感想 目当ての作品――ちなみに「911以後」の小説 911を因由とした作品はほとんど読んでいない*5 自分にとって現代小説の舞台は60〜70年、二棟の摩天楼もボールバックが仕舞い込まれた地下のロッカー室と共に健在である*6――は良くも悪くもキング*7だった オーツもしかり*8 ディーヴァーは案にたがわずドタバタし、初読のアン・ペリーなる作家(エリザベス二世号の船上で創作講座を開催するそうだ)は、北アイルランド問題を扱った小品だった*9
 んで、最後に残った*10一編――『アーチボルド−線上を歩く者』ウォルター・モズリイ――相違してこれが一番楽しめた チャンドラー熱を通過した後は、気の利いた言い回し、凝った比喩*11にすっかり食傷してしまい、卑しき街を行く騎士たちの物語*12を久しく敬遠していたせいもあったろう(つまり、目新しく感じたわけ) まずは幾つか引いてみよう

自分は真実に近い立場にいるから他人の権利を侵害して当然という頭のおかしな政治家

警察とは取り決めができている。こっちからは話しをもちかけないし、向こうも耳をかさない

 うむうむ、ひょろりと青白い誠実さと黒檀の豪胆を同居させてこそ探偵*13――軽口をたたく理想家、無邪気な理想を語る不逞(無法者)である

それが嘘に屈することを意味するなら、法律の条文に決して歩を譲ってはならない

 AML――もとい、ALL(Archibald Lawless)*14は、活動するプロ市民探偵なのであった*15
 ALLは事務所の壁一面に黒煙のような髭を蓄えた太っちょ*16ポートレートを飾りつけ、曖昧な警句を吐く 韻を踏む人種問題は(T・E・D・クラインとは異なり)いささかも物語の進行を妨げない*17

ちゃんと税金を払うと言ったのはきみだ。そうすることできみはエリート犯罪人の一味に、政治の階級に組み込まれていく。ガソリンでもニットのセーターでもバナナでも、それを買うとき、きみは地球最大の犯罪組織に属しているんだぞ

 んー、でもなー 話は面白かったんだけど んー、どうもねー、ネロ・ウルフと一緒でキャラが受け付けない――この巨漢は焼けたアスファルトに靴底を焦がしたりはしないし、なにより「清濁併せ呑む」革新系*18には尻込みしちゃうというか、自分、難儀なんです よってこれきり

 赤本は87分署シリーズ(最後の)中篇と殺し屋ケラーが収録されている どうしましょうかね


付記 タイトルについて
 往年のテレビっ子であれば苦笑してくれたかも 自分が付す一連のエントリタイトルは「夏の読書講座で身についた悪癖」と失笑されるレベル(意余って言葉足らず)なわけですが、マクベイン(井上 一夫)の小説タイトルを借用した倉本聰脚本のテレビドラマ『たとえば、愛』――うらぶれたライターが起死回生に提出したシナリオはあっけなく却下されるものの、「たとえば、愛」と記したタイトルだけが採用されるという自虐(逆に驕慢かも?)ネタのエピソードがあった由

*1:近視眼的な経済観念を持つゆえ、二冊同時は無駄遣い

*2:短編を除く エヴァン・ハンター名義であったかもしれん、なんか見つからないけど

*3:ウォルター・マッソーが出たやつ

*4:ロイ・ヴィカーズの迷宮課シリーズは素晴らしいが、どちらかつうと実話物

*5:ル=グウィンの『なつかしく謎めいて』ぐらい

*6:その時代を描いた新刊小説などを読むと、郷愁ではなく、自分は中二階に迷い込んだような、針の先にひしめくような実に不思議な気分となる 翻訳家が時制に関する誤った構文を読む際は、同様の思いに捕らわれるのだろうか?

*7:魅力的な筆致で描かれる日常、概略すればただのB級SFホラー カタストロフと遠く瞬く希望の灯

*8:〜新人賞受賞作の見本 作家志望はオーツを読むべし――この人は自在すぎるのだろうね 多作であるにもかかわらず実験的手法を自制しているのも理解できる

*9:そう、皆さんが今、頭に思い描いた通りの小説

*10:収録順でなく興味のあるやつから読んだ それほど食指が動かなかったというわけ

*11:トリックを書き留めるごとく、チャンドラーは思いついた比喩をノートに記した

*12:ハードボイルド 女性の描写に凝るのも特徴の一

*13:ま、一種のファンタジー

*14:不明のLは「でかぶつ」のLかしらん

*15:ロジャー・L・サイモンの探偵モウゼズは傷心の元運動家が主人公――リチャード・ドレイファス主演のテレビ映画を見ただけですけど

*16:無政府主義者だ!;゚Д゚

*17:活劇はワトソン役の素直な青年――『 セント・オブ・ウーマン 』のクリス・オドネルを思い浮かべてください――の通過儀礼コーチング)である

*18:浮き彫りの名刺をやたらに配りたがるイメージ

門がまえに月


 今回はだらだとうなされるように書く 読者二名(ゼロもかなり可能性のある数字だがそれは考えない)には申し訳ない

 漱石の『夢十夜』は個人的に掌小説の記念碑的作品 物語といえば「奇妙な味」一辺倒だった自分に、愉しみの術を拡げてくれた まあ、バタくさいのだけどね ワシントン・アーヴィングの幻想短編を彷彿……つか、『Lukundo』なる米国の怪奇短編があるけどこちらの方が趣向は近い
夢十夜』の地獄編とも称すべき内田百ケンの短編群 でっぷりした嶋田久作が暗躍する『遊就館』、『支那人』は『ベニスの商人』に類した読み直しも面白いと思う ただし有名な『山高帽子』、松本清張の昭和史発掘『芥川龍之介の死』と並び、(知己とはいえ)龍之介ファンにはちと腹立たしくもある一篇ではないかしらん
「不機嫌、不快だが悩まないので近代小説足りえず」という批評はけだし名言だと思う(要出典) 内田の作品に苦悩はないが、生臭さは半端でない(作品は私小説の形態をとる) 好みの分かれる(よく言えば)渋味だが、自分は合わなかった 「氏の詩的天才」ぶりは感じられなかったという事 んでこれきり、阿房列車まで進まず アーサー・マッケンみたいな朧な怪奇小説はもともと好きなんだけどな
 百鬼園の風貌はなぜか白い背広を着込んだ今東光とイメージされている(作家の写真は未だに見ていない) 『まあだだよ』のまめやかに枯れた松村達雄なんてとんでもない(メイキングで黒澤から嘲笑まじりのダメ出しを受け、ゆっくりと面を伏せる松村の座姿だけが心に響いた映画) 短編を通して、憎々しい悪人像が定着してしまっている

 元気な時は劇的な夢を見る 悪夢でもまっとうな悲劇を見る たとえ内容が怪奇であっても漱石風のを ダメな時はずるずると「百鬼園Ver.」 この何年かはずっとこれ 三月分から二つほど



「はるかなるみちーはるかなるみちー」と車内アナウンスだか己のつぶやきだか判別しない声を聞いている。黒田と身元不詳のうさんくさい小男と三人で電車に乗っている。地下を渉っていると思ったら川を越え、鉄橋を走っている。間が持てずに自分は二人に作り話を聞かせる。「いつか見た」車両内の光景をでっち上げる。座席の老女が持ちこんだラジカセを流し、新喜劇やニュースにいちいち悪態をついていたという話。「どこで?」と訊かれたので適当に答える。答えた後、それは若い小男の出身大学(市大)の沿線であったことに気づく。駅に着く。改札から続くコンクリートの短い地下通路を抜ける。大学に着く。東京大学だった。体育館横に青葉が茂る小道がある(つまり自分は懐かしき高校の風景を眺めている)。一際背の高い男がいるなと思ったら、プロ野球投手の金田だった。ああ、金田も東大OBだったなあと独りごちる。少年――書生(白いシャツだ)がプレートを配り歩いている。連れの二人も列に加わる。ポリオ接種らしい。二人共に東大生なのである(市大の小男もそうなる)。無関係な自分はもちろん礼儀正しく沈黙を守る。が、結局帰るしかなくなる。一人帰る。門から暗渠に入る。道の折れ先がすぼまり、どこに通じているのかわからなくなる。壷の形象がぱらぱら捲れ散乱。手に余り、なんだろうなあと思案していたら目が覚めた。黒田は誰だったのだろう。



 テレビでタレントが怪談話をしている。彼に知り合いの若手芸人から写メールが送られてきたらしい。写真が舞台に設けられたスクリーンに映る。顔を赤く塗り、その上に濡れたデイッシュを何枚か貼り付けている。薄紙越しに、前衛パフォーマーみたく口を大きく開いているのがわかる。要はムルルンマンの顔マネなのである(ムルルンマンなるヒーローについては夢なので自分も承知している)。怪談タレントが話す 「それからしばらくしてテレビで食堂の火事のニュースが流れたんです……ええ、犠牲者は彼だったんです」そう言って口をつぐむ。そこで「あー自分は今、芸人の今際の際、焼け跡の死に顔を見ているのだな」と思い至る。目が覚める。


追記 これだけでは余りにも余りになので、最近印象に残った一文を

「我が国の人々は、整理とか緊縮とか云ふ言葉を、まるで偶像を崇拝する如く有り難がる」『金解禁の影響と対策』

 金本位制なるグローバル・スタンダード――列国と対等にあることが日本(人)の威信、「悲願」であった時代、国際競争力、「不況克服の切り札」とされた円高の旧平価による解禁のため、緊縮財政、(経)財界のリストラは不可欠 「大手術であるから手術後一時は多少の発熱位は免れない……それとて余り心配する程の事もあるまい」(1929年11月16日東京朝日)と、改革派の講演会は「満場酔ったよう」 「構造改革なくして景気回復なし」の新聞、金融市場、国民(財相におさい銭)こぞっての世情に「左様なバクチは苟も国家としては打つべきでない」と異を唱え、平価切下げを主張した東洋経済新報主幹石橋湛山の言
 以上、2009年4月15日朝日新聞夕刊連載「検証 昭和報道(恐慌4)」から気儘につまんだ


 前半、朧でぐずぐず崩れてしまい、最後に王道のベタを狙ってみたものの、件の学識がなく「風刺」どころか薄い切り貼りに已む